×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
バイト帰りに、事故に工事規制に渋滞に巻き込まれてしまい、せっかくのおラジオに遅れてしまいそうで非常にテンパってしまっています、今。
しかしながら、あせってもしょうがないので、この持て余している時間を有効利用するためにブログを書くことにしました。
伊藤です。
今朝は昨夜の残り物のカレーをがっつり食って、朝から元気いっぱいでした。好きですカレーライス。
ちなみに一昨日の晩ご飯もカレーでした。
今までの人生において最大級のカレーブームが我が家に到来しています。
そういえば昨日靴を買いました。めちゃめちゃ久し振りです。いよいよ「だいとうりょう」ともお別れする時がきたようです。
そのおニュー靴との出会いは相当に劇的で、お値段も改装セールでかなりリーズナブル。まさかヨシヅヤで、財布を空っぽにすることを躊躇することなく即決で靴買うことになるとは思いませんでした。
カレーの材料買いに行っただけなのに。
嬉しすぎて、昨晩雨の中コンビニに行くためだけに早速おろしてしまいました。
良かったです。
などと言っていると、そろそろ帰れそうです。時間ギリギリすぎて手に汗握っていますが、運転手さんの機転のきいた判断により、良い感じなので何とか頑張って行きたいと思っています。
いってきま~す!
しかしながら、あせってもしょうがないので、この持て余している時間を有効利用するためにブログを書くことにしました。
伊藤です。
今朝は昨夜の残り物のカレーをがっつり食って、朝から元気いっぱいでした。好きですカレーライス。
ちなみに一昨日の晩ご飯もカレーでした。
今までの人生において最大級のカレーブームが我が家に到来しています。
そういえば昨日靴を買いました。めちゃめちゃ久し振りです。いよいよ「だいとうりょう」ともお別れする時がきたようです。
そのおニュー靴との出会いは相当に劇的で、お値段も改装セールでかなりリーズナブル。まさかヨシヅヤで、財布を空っぽにすることを躊躇することなく即決で靴買うことになるとは思いませんでした。
カレーの材料買いに行っただけなのに。
嬉しすぎて、昨晩雨の中コンビニに行くためだけに早速おろしてしまいました。
良かったです。
などと言っていると、そろそろ帰れそうです。時間ギリギリすぎて手に汗握っていますが、運転手さんの機転のきいた判断により、良い感じなので何とか頑張って行きたいと思っています。
いってきま~す!
イトウです。
昨日はツクモクを観に、久しぶりに今池の得三へ行きました。ツクモクというのは本当になかなかどうして良いバンドで、定期的にライブに足を運びたくなりますね。
最近は特に「メロンパン」という曲がすごく好きで、歌詞もメロディーも、僕の心を掴んで離しません。
昨日は一曲目にその「メロンパン」。その席に着くに至るまでの自分の心境をくみ取られているような、見えにくいようでよく見えるメッセージ性に改めて心を打たれたのでした。
スタートの時間に15分ほど遅刻せざる負えないほどに向き合わなければならない不測の事態に見舞われながらも、ライブは15分押しスタートで、席に着いて間もなく始まった「メロンパン」が自分のために始まったようで痛く考え深いものがあった。
帰り道、いつもなら絶対に立ち寄ることのない、少し遠回りの道にあるコンビニにタバコを買いに行きました。それで、すぐ帰ってもよかったけど、何となく店の前に立っていたら、偶然にもわが心の偉人某徳重ハイのたけし丸さんがやってきてしばらく話をしました。
定めや運命とか、普段よりそういうものはあまり考えないし信じてはいないのですが、こんな風に余りに自分にとって都合のよい出来事が起こるときには何か特別なものを感じそうになります。
後々自分に何らかの影響を及ぼすべくして起こった重要事項のようで、しかしながら何でもないような日常の中に時々ある単にひとつの良かった出来事に過ぎないような。
どちらでもいいんですけど。ただ、人の出会いにしろ出来事にしろ、望んでもみない望みが目の前に現れるという「偶然」て素敵だなと思ったのでした。
昨日はツクモクを観に、久しぶりに今池の得三へ行きました。ツクモクというのは本当になかなかどうして良いバンドで、定期的にライブに足を運びたくなりますね。
最近は特に「メロンパン」という曲がすごく好きで、歌詞もメロディーも、僕の心を掴んで離しません。
昨日は一曲目にその「メロンパン」。その席に着くに至るまでの自分の心境をくみ取られているような、見えにくいようでよく見えるメッセージ性に改めて心を打たれたのでした。
スタートの時間に15分ほど遅刻せざる負えないほどに向き合わなければならない不測の事態に見舞われながらも、ライブは15分押しスタートで、席に着いて間もなく始まった「メロンパン」が自分のために始まったようで痛く考え深いものがあった。
帰り道、いつもなら絶対に立ち寄ることのない、少し遠回りの道にあるコンビニにタバコを買いに行きました。それで、すぐ帰ってもよかったけど、何となく店の前に立っていたら、偶然にもわが心の偉人某徳重ハイのたけし丸さんがやってきてしばらく話をしました。
定めや運命とか、普段よりそういうものはあまり考えないし信じてはいないのですが、こんな風に余りに自分にとって都合のよい出来事が起こるときには何か特別なものを感じそうになります。
後々自分に何らかの影響を及ぼすべくして起こった重要事項のようで、しかしながら何でもないような日常の中に時々ある単にひとつの良かった出来事に過ぎないような。
どちらでもいいんですけど。ただ、人の出会いにしろ出来事にしろ、望んでもみない望みが目の前に現れるという「偶然」て素敵だなと思ったのでした。
ジュンさんの家で猫に会って、猫悪くないなと思いました。
伊藤です。
こないだNHKかなんかの番組で、携帯電話のメールによる言葉のやりとりについて是非を問うような光景を目にしました。
「それじゃあ気持ちが伝わらない」「いつでもどこでも誰かとやり取りができて便利」「メールじゃあ失礼になるときがある」
メールってどうなんでしょう?
常日頃、何かあった時に僕らは言葉を使ってその情景であるとかそれに至る事情を誰かに伝えるものですが、それは言葉が何より簡潔に情報を伝えるのに優れているからなのでしょう。何もなければ誰も口が利けるのにわざわざジェスチャーやアイコンタクトのみでやり取りをする人はいないでしょうから。まぁメールも文章ですが、言葉ですよね。
じゃあ言葉は便利なものですかね。だけどなんか便利なようで、実は不便なもんじゃないかなとも思えたりする。
例えば僕が「おいしい」と言ったときに、それを聞いた人は「へぇ、おいしいんだ」 と思うんですが。「おいしい」って「おいしい」でしかないんです。
おいしいごはんを食べて、その瞬間にその人のなかに浮かぶものって「おいしい」という文字ではないと思うんです。もっと感覚的に、色なのか形なのか、何なのかはわかりませんが、もともとは説明のしようがないもので、もしかしたら説明もできなくはないけど全部説明するとむちゃくちゃ時間がかかっちゃうようなもの。
で、いつかどこかで誰かが、「こういうのを<おいしい>っていうことにしようよ」と決めたものだから、みんな「おいしい」って言うようになったんです。
でもその時初めてそれを聞いた人の中には、「いや違う、この感じは<おいしい>じゃ変だ。もっと違うでしょ」と思った人もきっといたはずです。それが、時間がたつにつれて皆当たり前のように使っていると、だんだんそれは当たり前に「おいしい」になったんです。「おいしい」という言葉が生まれてどれくらい経つのかは知りませんが、とりあえず僕は「おいしい」という言葉に何ら違和感を感じることなくそれを口にしています。
今携帯電話のメールがなどと言っていても、何十年何百年とやってくと、そのうち誰も是非を問うたりはしなくなるでしょう。
ずっと昔から、今まで僕らの周りにあるもの全部がそうやって暮らしに浸透してきたわけで、極端に言えば今テレビで「おいしいって、おいしいじゃ伝わらねえだろ!」と言葉の是非を問うたりはしないはずですから。
伊藤です。
こないだNHKかなんかの番組で、携帯電話のメールによる言葉のやりとりについて是非を問うような光景を目にしました。
「それじゃあ気持ちが伝わらない」「いつでもどこでも誰かとやり取りができて便利」「メールじゃあ失礼になるときがある」
メールってどうなんでしょう?
常日頃、何かあった時に僕らは言葉を使ってその情景であるとかそれに至る事情を誰かに伝えるものですが、それは言葉が何より簡潔に情報を伝えるのに優れているからなのでしょう。何もなければ誰も口が利けるのにわざわざジェスチャーやアイコンタクトのみでやり取りをする人はいないでしょうから。まぁメールも文章ですが、言葉ですよね。
じゃあ言葉は便利なものですかね。だけどなんか便利なようで、実は不便なもんじゃないかなとも思えたりする。
例えば僕が「おいしい」と言ったときに、それを聞いた人は「へぇ、おいしいんだ」 と思うんですが。「おいしい」って「おいしい」でしかないんです。
おいしいごはんを食べて、その瞬間にその人のなかに浮かぶものって「おいしい」という文字ではないと思うんです。もっと感覚的に、色なのか形なのか、何なのかはわかりませんが、もともとは説明のしようがないもので、もしかしたら説明もできなくはないけど全部説明するとむちゃくちゃ時間がかかっちゃうようなもの。
で、いつかどこかで誰かが、「こういうのを<おいしい>っていうことにしようよ」と決めたものだから、みんな「おいしい」って言うようになったんです。
でもその時初めてそれを聞いた人の中には、「いや違う、この感じは<おいしい>じゃ変だ。もっと違うでしょ」と思った人もきっといたはずです。それが、時間がたつにつれて皆当たり前のように使っていると、だんだんそれは当たり前に「おいしい」になったんです。「おいしい」という言葉が生まれてどれくらい経つのかは知りませんが、とりあえず僕は「おいしい」という言葉に何ら違和感を感じることなくそれを口にしています。
今携帯電話のメールがなどと言っていても、何十年何百年とやってくと、そのうち誰も是非を問うたりはしなくなるでしょう。
ずっと昔から、今まで僕らの周りにあるもの全部がそうやって暮らしに浸透してきたわけで、極端に言えば今テレビで「おいしいって、おいしいじゃ伝わらねえだろ!」と言葉の是非を問うたりはしないはずですから。